2021年2月8日 全校礼拝のお話
「悔い改めよ」とは、どういうこと?
1月25日の礼拝に引き続き、2月8日もお話をいただきました。
2021年2月8日 北星余市高校礼拝
【聖書】
マタイによる福音書4章17節 そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
【説教】
「過去と他人は変えられない。でも、未来と自分は変えることができる」。
僕があるお医者さんから教えてもらった大切にしている言葉です。自分が変わることは怖いし、面倒くさい。でも自分の気に入らない誰かを変えたくなる。やってしまった過ちは元には戻らないことを知っていて、でも過去にとらわれて心も体もすり減らしてしまう。他人を変えようとすることも、過去を変えようとすることも、言ってみればそれはいのちの否定です。誰かと自分の否定です。変えられない過去もでも、それは今の自分へと続いてしまっているものなんです。残念ながら。 大切なのは、「あの時こうしておけばよかった。忘れてしまいたい。思い出したくもない」という、そんな昨日を見つめつつも「これからどうしたいのか。どう自分は生きていきたいか。変わっていきたいか」それを考えること。そうやって自分が変わる力を、一歩踏み出す力を育むこと。誰も否定しないで、今日と今日から続く明日を大切に生きる。そのことを思い出させてくれる言葉が、「過去と他人は変えられない。でも、未来と自分は変えることができる」。
でも、これはとても難しいこと。時に残酷で、辛いこと。独りでは決してできることではないのです。
イエスはいろんな人と出会い、そのいのちを受け入れて生きました。そんな歩みの第一歩は《「悔い改めよ」》という言葉から始まったそうです。「悔い改め」ってなんでしょう。「二度と同じ間違いをしないように反省すること」? ちょっと違うようです。聖書の言う悔い改めは「方向転換・心を切り替えること」です。イエスが生きた暮らしの中で、たくさんの人が変えることのできない「過去」にとらわれていました。 権力を持って偉ぶっている者たちは、誰かの過去の失敗を捕まえて、「お前は生きている資格はない」と切り捨てました。生まれながらに病を負うた人を指差して「神にすら見捨てられた救いようのない存在」と笑いました。それは、いのちの否定でした。 変えられるものなら変えてやりたい。でも、叶わない。悔しさと絶望を押し付けられた人々は生きること、今日を明日を諦めました。 権力者たちは自分の力、富、地位のゆえに、自分の未来は輝いていると思い込みました。約束された輝かしい未来が与えられていると信じてやみませんでした。そうやってたくさんのいのちを踏みつけにしながらの生きたのでした。
そんな現実の中でイエスは言いました。「心を切り替えよう」。それは、過去を否定したのではありませんでした。変えられない過去を否定され、生きていることを諦めさせられる。そんな思い込みから、心を切り替えて生きていこう。「確かに、あんたは間違ったかもしれない。生きづらさを抱えているかもしれない。でも、今日からはそのことに縛られない生き方がある。それは、いのちを創った神があなたのことを心から大切に思っているのだから。安心して今日を生きよう。そして、今日から続く明日を変えていこう」とイエスは語りました。 同時に、誰にもわからない未来を決めつけ安心しきっていのちを踏みつけにする権力者たちにもイエスは言いました。「心を切り替えよう」。いのちを否定する生き方から、あなたが持っている富や力を使って、いのちを生かす生き方へと心を切り替えよう、と。
イエスは徹底的に「今日」を大切にしました。それは過去や未来がどうでもいいからではなかったんです。変えられない過去にとことん向き合い、諦めないで明日を信じているから「今日」を大切にしたのです。 僕は、聖書に記されているイエスのそういう生き方はとても大切ではないかと思います。何も否定しない。過去も、今日も、未来も。そして、未来をどう生きたいかを問いながら、今日を一生懸命に生きる。自分を変える力がそこに生まれる。変わっていくことのできる喜びがそこにある。
自分を変えることは決して独りではできません。でも、誰かとならばできます。その意志あるならば。そして、不思議なことに人が変えられていくための力は仲間を通して発揮されるのです。皆さんも北星の生活を通してそういう瞬間があったんじゃないでしょうか。 同時にイエスの生き様をふと思い返してみて欲しいとも思います。その輪の中に神の力の働きがあるのだと僕はそう思うからです。そうやって、心を前向きに切り替えて、かけがえのない今日を共に生きていきましょう。