よくあるご質問

0135-23-2165

研究者・その他団体

    HOME > 研究者・その他団体

研究者・その他団体

青砥 恭

青砥 恭

青砥 恭氏

昨年12月、数年前から連載が続いている朝日新聞(埼玉県版)の「はぐくむ」というコラムに北星余市高校の取り組みについて次のような文を書いた。

2019年の晩秋の数日、北海道の日本海に面した余市町にある北星学園余市高校からアドバイザーを依頼され出かけた。北星余市高校は全国から、さまざまな理由で高校を中退、または中学から不登校で高校入学を果たせなかった、そんな生徒たちが、親元から離れ、余市町内の「下宿」に寄宿しながら通う、全国でも知られた高校である。北星余市高校はいわゆる普通の学校とかなり違う。通常の高校の教育活動は、授業での学習活動と放課後などで行われている特別活動(部活動や生徒会活動など)から成り立っている。北星余市高校はそこまでは同じだが、プラスして、毎月のように行われている「学校行事」があり、生徒たちがまったく他人である「下宿」のおばさん、おじさんと家族のような関係をつくりながら学校に通う。  

一番大きな違いは、生徒と教員の関係性づくりにある。授業が終わると、生徒たちは職員室にぞろぞろ移動する。教員たちとおしゃべりをするためである。訪問した日の夕方、修学旅行の担当教員と実行委員の生徒たちとのミーティングの場を覗いた。沖縄への修学旅行だが、那覇市での夜の散策の後、ホテルに戻る時間を何時にするか、何時間もかけて話し合っている。教員と生徒、生徒間の意見の違いを互いに配慮しながら議論していた。

北星余市高校は生徒の「居場所」でなければならない、そのためには多くの行事が用意され、その行事を実施するためには、教師たちは徹底した生徒たちとの話し合いをいとわない。そんな文化がこの学校には成立している。この学校に到達するまで、それまでの学校生活で受け入れられなかった若者たちが、自分を受け入れる教師たちや仲間たちを発見する場になっている。卒業式で生徒たちは競争の中で疲弊し、苦しかった過去の記憶を思い出しながら、涙しながら精一杯の晴れ着でのぞむ。

日本中で孤立が若者たちを追い込んでいる。いつでも相談でき、悩みをぶつける友人や大人をもっていない。北星余市高校は、そんな若者のために、生徒の主導で交流の場をつくり、自律性の感覚を育て、「自分は生きている」という効力感の形成を目指しているのである。 

本当の教育とは何か、「教育を人格的接触」、生徒と教師は「敬意と承認」の関係としたプラトンを思い出す。

朝日新聞に書いたのはここまでである。以下はもう少し、書き足らなかったことをまとめたい。

一つは、今の学校の役割についてである。

本来、後期中等教育(高校教育)は、学校から仕事へという移行期を保障する機能を持つ。近代の学校制度は、国民国家の形成と共に社会の統合や文化の継承を目指して作られたが、その後、子ども一人ひとりの発達と社会的な自立を担うという目的をももつようになった。しかし、不登校や高校中退など、早期に学校教育から離脱する若者たちにとって、学校は社会と若者たちをつなぐという「移行支援」機能を果たすことができないことになる。その理由の多くは、貧困による親の経済資本、社会関係資本、文化資本の不足という「社会的格差」によるものである。高額な費用が必要な日本の教育では、経済資本と社会関係資本の乏しい世帯の若者が社会とつながらないのである。しかも、家庭に居場所としての機能がない子どもたちは同時に学校の中にも居場所が見つけられない傾向がある。

学校と家庭に居場所としての役割がなければ孤立が進み、構造的に子どもたちの中に絶望感や無力感をもつくり続けることになる。

しかも、市場原理を背景にした競争的な価値観に支配された学校は、官僚組織の一つでもあって、①世代間の文化継承&社会統合(階層間の移動)、②社会参加をめざし、人格的な成長(学校から仕事への移行)という使命を持つはずだが、その役割を担った教師からの監視や抑圧的なまなざしから自由にはなれない。「制度化された『権威』が教え手である教師に委任」(『再生産』ブルデュー&パスロン)しているということになる。

日本の学校における他者との終わりなき競争は、子どもたちの中で排除される子どもたちを生み、その対立が混乱を生む中で、逆に教室の秩序の維持するために、教師と子どもの間、子ども同士に、(教える⇒学ぶ)(評価する⇒評価される)という地位と支配・被支配という関係性をつくるのである。その中で、疲弊した子どもの中で不登校の子どもや生徒が増え続け、実際はどうあれ、「オールタナティブとしての通信制高校、フリースクール」に生徒が集中する現象が生まれているのである。

子どもの居場所は、「子どもの居場所という言葉は子どもが能動的に集まり、群れて心身を解放し、自治的、創造的に企てをおこなう時間・場所という本来の意味よりも、保健室や不登校のサポート施設のように、受容され、安心できる緊急避難の場、疲労を癒すために心のケアが求められる場所としての意味が強くなっている。」(「地域社会における子どもの居場所づくり」 佐藤一子『岩波講座 現代の教育7』)

北星余市高校では生徒の居場所論がよく語られる。私たちのNPOもさいたま市内に、たまり場と名付けた居場所を開設して10年になる。やはり、その居場所は2つの機能を持っている。①子どもや若ものたちに、多様な体験が可能な場を保障することで他者(社会)との関係性を育てること、②他者から受容されない子どもたち、他者との関係性、まなざしに耐えられない子どもや若ものに避難の場を保障することである。

さらに、学校システムから排除された生徒たちのネットワークを育てるには、生徒主導の自律性の感覚を育て、自分は自分の行動の主人公という効力感を形成していくしかない。その場は仲間からの認容と共感を保障するあたたかい交流が日常的に必要である。

私たちのNPOも10年間、居場所づくりの中で、居場所とは避難、受容、ケア、安心安全だけではない、多様性の認識、自己認識、多様な価値を承認すること、そのために多様な価値を持つ人間が集い、協同の体験をする場と考えてきた。まとめるとこうなろうか。

  1. 同じ体験ができる場 
    生きる場を共有する
  2. 生活リズムが確立する場 
    毎日、通って立て直す
  3. 人との関係性を育てる場 
    喧嘩や衝突もある=慣れる、耐える、客観的にみる力
  4. 多様な年代の人と話せる場 
    コミュニケーションの面白さ話せる喜び
  5. 悩み事を相談できる場 
    孤立からの解放(第三者に話して整理できる)
  6. 自分を再認識できる場 
     →アイデンティティの確認、自分ってどんな人間
  7. 安全で安心感をもてる場 

北星余市高校の課題は、やはり、移行支援としての高校教育をどの作り上げるか、多様な困難を経験し、北星余市高校にたどり着いた生徒たちに、どんな力を育て、どのように社会につなぐか、そのためにどのような学校づくりをこれから目指すか、ということになろう。

 

和歌山県精神保健福祉センター 小野善郎

和歌山県精神保健福祉センター 小野善郎

小野善郎氏

1.学校と授業の印象

近年は生徒数が減少し、学校自体は空き教室が増えるなど寂しくなる傾向はあるが、それでも生徒たちに活気があり、とりわけ休み時間の職員室に集まる生徒たちの元気な姿や教師たちとの交流を見ていると、生徒数の減少を感じさせないばかりか、学校全体が活気にあふれているようにさえ感じられる。生徒数が少なくなると、学校全体が静かになって、人の存在が薄くなりがちだが、北星余市はとても人の存在感が強い場所だと感じた。

元気な生徒たちは、授業ではともすれば不規則発言や無駄な動きをすることで授業の進行の妨げになりかねない。たしかに視察した授業のなかにも、一部の騒がしい生徒たちが口を挟むことでなかなかスムーズに授業が進まないような場面は見られたが、だからといって授業が成立しないというわけではなく、そんな生徒たちの相手をしながらも授業は進んでいくところが不思議である。騒がしいけれども崩壊しない授業も北星余市の教育の特色といえるだろう。

ほとんどの授業は独自のプリントを使い、どの生徒にもわかるような授業内容になっているので、「レベルが低い」といわれるかもしれないが、教師と生徒との相互作用の中での学びという点では、とても効果的な教育だと感じる。多様な生徒たちと授業を通して交流することは、単なる知識の獲得だけにとどまらない、学びの体験となっていると感じた。


2.修学旅行実行委員会の議論

授業の視察後、2週間後に迫った修学旅行に向けて、2年生の修学旅行実行委員会の会議の様子を見せてもらった。基本的に希望者は実行委員になることができるので、今年は24名ほどが委員になり、そうなると生徒の代表というよりは全員で修学旅行を作り上げているというような感じに近い。志願者の集まりであったためかもしれないが、実行委員会では熱のこもった議論が展開されていたのに驚いた。会議では自由行動の日にホテルに戻る門限を何時にするかで議論は白熱し、私たちが同席した時間の中では決着がつかなかった。

ここで印象に残ったのは、たしかにやんちゃで活発な生徒の発言が目立ったものの、一見おとなしく距離を置いているような生徒も、要所要所ではきちんと発言し、それを他の生徒たちがしっかりと聴いていたことだった。声の大きな生徒の意見に流されるのではなく、出席している一人ひとりの意見を尊重しながら、合意を形成していく議論の過程は、とても素晴らしかった。

自分たちのルールを自分たちで決めることは大切なことであるが、それは一朝一夕にできるようになるものではない。それは入学して以来、毎日の学校生活だけでなく、数多くの学校行事をとおして習得してきたもので、北星余市の教育成果のひとつといえよう。


3.生徒たちを支える大人たち

道外からの生徒たちが生活する寮下宿を訪問し、生徒たちの生活の場を見せていただき、管理人さんからお話をうかがった。寮下宿は男女別になっていて、それぞれ1か所ずつ訪問したが、居室や食堂などのハード面だけでなく、管理人さんの人柄やポリシーによって、それぞれ特徴があり、決して画一的ではないところが、北星余市での高校生活により深みを与えているように思われた。それぞれの寮下宿には特有の文化があり、それは管理人さんのもとで生徒たちが築きあげたもので、クラスとは別の居場所となっている。

毎日朝早くから朝食と弁当を用意し、夕食も提供するのはたいへんな仕事であることは言うまでもない。長期休暇中は閉鎖するものの、学期中はほとんど休みなく働き続けるのは、今の時代には「割の合わない」仕事に見える。ベテランの管理人さんたちは、そこそこの年齢になっていることも考えれば、体力的にもかなりしんどいだろうと思う。それでも訪問した寮下宿の管理人さんたちは、この仕事が好きだから辞めたいとは思わないと言い切った。

興味深かったのは、男子寮の管理人さんは男子を扱うのが得意で、女子寮の管理人さんは女子の扱いに慣れていて、男女別のプロ意識のようなものがあることだった。思春期の生徒たちを受け止めて、ときには厳しく接することもある管理人さんは、親代わりであるのと同時に、親以上に重要な役割を担うこともある。管理人さんたちには、ただ単に部屋と食事を提供するだけではない、生徒たちの育ちにとても重要な役割を果たすプロフェッショナルなパワーを感じた。

このような寮下宿があることも北星余市の教育の重要な要素であることは間違いない。


4.生徒会執行部との意見交換

視察2日目の夕方には、ちょうど任期を終えたばかりの前期生徒会執行部の生徒たちと意見交換の場が持たれた。さすが半年にわたって、ほとんど毎日、遅くまで議論を尽くして生徒会活動をしてきただけあって、自分の意見を持ち、それを表明するのは見事であり、頼もしくも感じた。

生徒会活動の話として印象に残ったのは、「学校が楽しい」と思えるように自分たちが何をするかを考えてきたということだった。自分たちの学校を自分たちでいかに楽しい場にするか、言い換えれば自分たちの安全で安心できる居場所を作ろうとしたということだ。学校生活を学校の規則や教師に委ねるのではなく、自分たちで作り上げようとする生徒会の役割が本校の大きな特徴といえよう。

執行部のメンバーの考えはそれぞれで、必ずしも生徒会長がトップとしてリードするというよりも、ここでもお互いの意見をしっかりと聴いた上で、全員が対等の立場で話し合って決めていくというスタイルが貫かれていた。つまり、生徒会としての責任を会長に委ねるのではなく、一人ひとりの役員がしっかりとした責任感を持って話し合っている姿が見られた。

私たちの質問にとことん答えてくれたことで、意見交換会は2時間以上の長丁場になったが、最後まで集中が途切れることなく、とても中身の濃い時間を持つことが出来た。私たちにとってもとても興味深く有意義な時間だった。


5.提言-北星余市の可能性

北星余市の教育現場を視察して、ここには「育ちの場」としての条件が整っていると感じた。一人ひとりの生徒の存在が承認され、授業だけでなく学校生活のさまざまな活動に参加する機会が保障され、そこでの対人的な交流をとおして成長する、そんな不思議な化学反応を起こす「反応炉」のような場だと思った。単に安全で居心地の良い「居場所」ではなく、余市町という地域とともに子どもたちがそれぞれの個性に応じて成長するダイナミックな場になっていると思う。

北星余市の生徒たちの姿を見ていると、そこに平成20年からの学習指導要領が中核的な概念とした「生きる力」が具現されているように思われる。もし、学校教育が「生きる力」を追求していくとすれば、それは個々の教科科目の履修だけでなく、一人ひとりの生徒の参加と対人交流も非常に重要な要素となるはずである。それはテストの点数で評価できるものではなく、授業での教師とのやり取り、学校行事での生徒同士の協力、日頃からの話し合い、それらがすべて高校教育になくてはならない要素であり、それらが総合して生きる力が獲得されていくものである。

北星余市が本来の高校教育の役割をしっかりと果たし、一人ひとりの生徒の成長の場として貢献しているとすれば、ここの教育はもっと高く評価されるべきで、全国から第一志望として生徒が集まるようになる可能性は十分にある。残念なことに、このような北星余市の教育の成果は、進学校の学力や偏差値、大学入試の実績のように数値化して示すことができないので、どうしても過小評価されがちである。目に見えにくい教育の意義や役割について、さらに積極的に発信し、理解を広めていく必要があるだろう。

北星余市の卒業生は入学難易度の高い大学に進学することは稀であるが、その一方で大人として生きていく大きな可能性を持って巣立っていくのではないだろうか。高校3年間に自分をしっかりと見つめ、多様な生徒たちと議論し、さまざまな活動に参加して、目標に向かって進んできたことは、大人として生きていく基盤になるに違いない。それは学歴だけで獲得できるものではない。「生きる力」を育む北星余市の教育に、これからも期待し続けたいと思う。

津富 宏(静岡県立大学)

津富 宏(静岡県立大学)

津富 宏氏

北星余市で起きていたこと

今回の訪問で最も鮮烈だったのは、修学旅行の門限をどうするかという話し合いである。教師が一人、門限は9時と言い放つ。生徒たちは、教師がそれを正当化するロジックを確認しながら、自分たちで、それに対抗するロジックを集合的に構築して、門限を延ばしてもらおうとする。印象に残ったのは、門限がどう決まったかではなく、話し合いのありようである。

この話し合いでは、自分の意見がある限り、言葉が足りていても足らなくても、一人ひとりが発言しようとする。誰の発言であろうと、全員が、全身の注意を払って聞き遂げる。手を挙げれば、飛ばされることはなく、必ず指名される。一人でも異なる意見の者がいれば、「○○君の意見を聞こうよ」という声が出て、全員でその人の意見を聞こうとする。だからこそ、自分の意見は必ず聞いてもらえるという信頼がある。

自分が賢いことを示しそうとしたり、人を言い負かそうとしたりするための発言もまったくない。一人ひとりが思うことを思うままに発言する。そして、出された意見がバラバラであろうと、この話し合いは必ず結論に至れるという信念と信頼のもとに、全員が気力と体力の限り集中し続ける。さっさと決めてしまおう、そのほうが楽だというようなそぶりはまったくない。全員が、全力で話し合い続ける。しかも、それが、40人余りが「ロの字」に座って行われる。圧巻である。

私は大学に勤めてから、こんな風景を見たことがない。教室での問いかけには、学生たちは押し黙るのが通例である。学生たちに話し合ってもらうためには、数人の小集団をつくるのが定番になっている。近距離で顔を突き合わせないと、話し合いが始まらない。大人同士の会議でも、押し黙っているのは定番である。物言えば唇寒しとばかりに、無言を貫く参加者は多い。発言をすれば、責任が問われかねないからだ。根本的には、他の参加者と「共同の場」を支え合っているという了解が成立していないからだ。

しかし、北星余市の子どもたちに、そのような怯えはみじんもない。他の生徒を信頼しきっているからこそ、子どもたちは率直に発言をする。やんちゃだった子どもたちも、不登校だった子どもたちも、臆せず発言をする。

おそらく、北星余市の子どもたちは、他者から十分に信頼された結果として、「どうせ」話をしてもしようがない、「どうせ」他者と関わってもしようがない、「どうせ」学校なんか行ってもしようがないという気持ちから解放されている。だからこそ、こんな話し合いができるのだろう。

私と一緒に、北星余市を訪ねた学生たちにとっても、おそらく、この話し合いが最も印象に残ったのではないか。このような話し合いができる集団をつくりたいと心から思ったのではないか。


北星余市で起きたらよいこと

今回の訪問で求められたのは、北星余市における「学び」の改善である。最初に確認しておきたいのは、このような場で起きている「学び」は、一般の学校で期待されている「学び」とは、根本的に、違うということである。

一般の学校では、「よい子」であれという、教師や親からの視線に合わせることが「学び」とされているが、北星余市での学ぶのは、他者の期待ではなく、自分自身の内面に正直にふるまいながら、他者とともに、どのように生きるかである。一般の学校では、「成績をよくする」ことや「受験学力をつける」ことが「学び」とされているが、北星余市で学ぶのは、そのような、世間で「おきまりの」期待に沿ったものとはなりえない。

北星余市にいる子どもたちは、一般の学校を覆っている空気には間違いなく敏感である。であるから、一般の学校を基準とした「学び」を、北星余市の子どもたちに期待するのは大きな間違いであると思う。


では、何をどのように学ぶのか。

北星余市の子どもたちの原点は、この世の中、とりわけ、この日本の学校生活は「どこかがおかしい」という違和感である。このおかしさは、彼らだけでなく、日本の子どもたちの多くが感じているものだ。多くの子どもたちは、押し黙ったり、無理をしたりして、学校生活を送ろうとする。だからこそ、不登校を選ぶ子どもたちが増え続け、夏休み明けには多くの子どもたちが自殺をする。

この「おかしさ」は、今回の訪問に同行させていただいた、私のゼミの学生もまた、自らの学校生活で感じていたものだ。彼らは、北星余市で自分が押し殺し、蓋をしていた感情に気づいてしまい、自分の「青春」を返してほしいと思ったのではないか。

北星余市における「学び」とはこうした「おかしさ」を原点に展開するものだと思う。北星余市の子どもたちには、一人ひとりの生きづらさを聞きあう力もある。学校生活や寮生活を通じて、自分たちの力を合わせれば、より良い場をつくりだせることも知っている。門限についての話し合いのように、自分たちにとっての「最善」に向けて、徹底して話し合う気力も体力も知性もある。

北星余市には、小学校の頃からまったく勉強についていけなくなった子どももいるだろう。学力はあっても、「学校で教えられること」にまったく興味の持てない子どももいるだろう。さまざまな子どもたちがいるのが、北星余市の強みである。子どもたち同士で、「本当は、自分たちはどんな学びをしたいのか」を話し合い、それを、教師と一緒に揉むことができれば、子どもたちは学園祭や強歩と同様に、自らの学びの場をつくりだしていけるのではないか。

たとえば、お互いに基礎学力を補う場がつくれるだろう。北星余市の子どもたちであれば、自分が十分に学べていないことを率直に開示し、教え合うことができるだろう。そのためには、どんな教材がよいのかも話し合えるだろう。教師も、そのための助言ができるだろう。クラス全体で、同時に、同じことを学ぶ形式から離れてもよい。私が勤務していた少年院では、自習教材を渡して、分からなかったら質問を受けるという形式だけで、多くの子どもたちが基礎学力を付けていった。大事なのは、教師が助言しながら、子どもたちが話し合いをつうじて、こうした選択を行っていくことだ。自習教材でもいい、グループ学習でもいい。「誰一人おいて行かない」ということを実現しようよと投げかければ、北星余市の子どもたちであれば、きっと応えるであろう。

あるいは、自分たちの感じてきた「おかしさ」について話し合い、それを乗り越えていくための提案を考える場もつくれるだろう。自分たちの感じてきた「おかしさ」を丁寧に振り返り、それがどこから来ているかを考えながら、それを変えていくためになにができるのかを考えることもできるだろう。北星余市の子どもたちの敏感さは、この社会を変えるための鉱脈を掘り当てるのではないか。教師も含め、世の中の「おかしさ」に向き合っているさまざまな人々を「正解」としてではなく学園に招いて、一緒に考えることもできる。もちろん、その議論には、教師も寮の方々も加わることができる。この世の中を真剣に生きている大人と話をすることは、子どもたちがより一層、この社会を信用することにつながるだろう。 このような場は、私がゼミでつくりだそうとしているものでもある。一人ひとりの学生には、一人ひとりの生きづらさがあり、それをテーマとしてお互いに学びを深めることができる。北星余市の子どもたちの力があれば、一人ひとりの持つテーマを聞きあいながら、「自分たち」のテーマとして蒸留して深めていくことができるだろう。


北星余市の価値

これまで私は、北星余市の価値は、一般の学校になじめない子どもたちと真剣に向き合ってくれるということだと思っていた。しかし、今回の訪問で、北星余市の価値はそれだけではないことに気づくことができた。

今回気付いたのは、北星余市で起きていることは、「よい子」であろうとすることからの解放だということである。北星余市の子どもたちは、北星余市では、一般の学校のように「よい子」でなくてもいいんだということ知る。服装も髪型も髪色も自由というのはわかりやすいが、授業中に先生に不規則発言をしても、休み時間に職員室に殺到してもよい。彼らは、こうした生活の中から、自分たちなりの「規律」をつくりだす。

「よい子」でなければならないという見えない圧力から解放されると、子どもたちは、自分自身が本来持っている輝きを放ってよいことを知る。一人ひとりが輝きだすと、その輝きは、他の子どもたちの感じるところとなる。北星余市では、各自の持つの輝きである「見えないもの」をお互いにたくさん浴び合って、一人ひとりが、自分として生きていい場がこの世の中に現前していることを知る。一般の学校は、こうした輝きを押し込めてしまう。つまり、一般の学校の「逆」をやっているのが、北星余市だ。

今回の訪問で、私が新たに気づけたのは、北星余市は、一般の学校に対して、「本来の教育」とはこういうものだと示すという価値を持っているということである。一般の学校が「よい子」を育てようとして進化する過程で見失ってきたものが、北星余市にはある。

私は、ずっと、北星余市は日本の宝だと思ってきた。今回の訪問はその思いをさらに強めてくれた。

 

北星余市高校を見学して

静岡県立大学津富ゼミ3年 鬼頭風音

先日はお忙しい中私たちのためにたくさんの時間を割いてくださってありがとうございました。

北星余市高校を見学して様々な点が他の高校とは違い驚くことばかりでしたが、その中でも印象に残った点をここでは二つ上げたいと思います。

まず、先生と生徒の距離が近いという点です。事前の調べでも先生と仲がいいという情報は得ていましたが、実際に見ると本当に友達のように接していて、授業の合間の休憩には先生に会いに職員室に来る生徒も多く、私の学校ではありえないことだったため、とても驚きました。また、先生たちは生徒にあまり口出ししないような印象を受け、とても羨ましく感じました。少なくとも私の学校では生徒会を筆頭に自分たちのやりたい事というよりは、先生たちの支持のもとに動き、それを誰も疑問にさえ思っていない雰囲気でしたが、北星余市高校では先生ではなく生徒が主導となって学校の様々な企画を考えたり、修学旅行の集合時間まで生徒が決められることにとても驚きました。 このようなシステムがあってか、生徒たちが自ら動き、活発であるという印象を受けました。自分たちで決めていくことでそれに伴う責任や時間労力があるということを高校生のうちから学べるということはとても素晴らしいことだと感じました。

二つ目に、カーストが無いことです。私たちが見学したのはたったの二日間だけであって、学校の全てが見えたわけではありませんが、二日間の見学では高校ではよくあるカースト制度のようなものがないように感じられました。特にその様子が感じられたのは、修学旅行の帰りの集合時間を決める話し合いの場です。そこに座っていた生徒全員が発言していて、見た目的に気が強そうな子から穏やかそうな子までみんな自分の意見をしっかり持っていました。さらに、私が感心したのは、誰が発言してもみんなその意見を一旦は受け入れて相手の意見を頭から全否定することなく自分の意見もしっかりと発言していたことが、とても大人だと感じました。大勢がいる場で自分の意見を言うことが恥ずかしいとか、こんなこと言ったら後でこう思われるんじゃないかとか、高校生なら考えそうな幼くてくだらない感情が誰にもないように感じられました。また、話し合いの場以外でも見た目や性格の雰囲気等関係なく誰もが仲良く話している場面を多々見かけ、集団で群れることのくだらなさや、見た目で判断することの愚かさ、人の目を気にして仲間を選ぶ恥ずかしさに今の時点で気づけていることがとても羨ましく感じました。少なくとも私は高校生の時はカースト制度を気にしていたし、自分がいたい人といればいい事や人の中身を見ることの大切さに気付けたのは大学に入ってたくさんの人と関わってからでした。

最後に、北星余市高校の見学を通して、ここにいる生徒たちは精神年齢が高いと感じました。自由に伴う責任や、本質的な人間関係を気付く大切さ、周りに流されない自立性を持っていることにとても感動しました。新しい世界を見せていただきありがとうございました。

北星学園余市高等学校で感じたこと

静岡県立大学3年 柴本美憂

良かった点

北星余市で最も印象に残っているのは、生徒全員が自分の言葉や想いを持って話をしていたことです。特に、修学旅行の話し合いは、圧倒されました。数人で話し合いをしている時でさえ、私たちは沈黙の時間ができるなどするのに、数十人の中で余市の生徒たちは積極的に誰に促されるとかでもなく意見を述べていました。自分と違う意見に対し、批判や馬鹿にすることもなく、人が話しているときにみんながしっかり話を聞く姿勢は、それぞれが敬意を持って話し合いを進めているのだと感じました。論点がそれたら実行委員の生徒が注意して話を戻す、意見がある人はまず手を挙げるなど、仕組みもうまく成り立っていてこれこそが理想の「話し合い」なのだと思いました。このような、北星余市の生徒の皆さんが日々当たり前のように行っている「話し合い」の風景を多くの方に見てほしいです。また、生徒会の方々とお話しする機会をいただき、生徒会の皆さん一人一人の言葉の重さに感心しました。彼らは、どうしたらもっと学校が良くなるかということを真剣に考えていました。自分たちは北星余市に来てどのように変わったか、どうして変われたか、良いところなどそれぞれが違う言葉で話してくれました。自分の言葉で話すことは、発する言葉一つに責任が伴うから、難しいし、恐れてしまうことだと思います。しかし、その場にいた誰もが自分の気持ちを嘘偽りなく、オープンに話をしていました。それは、視察にきていた先生方、私たち津富ゼミの皆もそうであったと感じます。余市高校の雰囲気、先生方、生徒、余市学園高等学校全体がそのようにさせてくれたのだと思います。

なぜ

では、どうして北星余市はこんなにも学ぶことが多く良い学校なのだろうか、と自分なりに考えてみました。一つは、問題が起こったらすぐに話し合って解決しようとする姿勢です。先生方も、気になるところがあったら指導を入れ即座に問題解決を行うとおっしゃっていたように埋め合わせを他でしないことが大切だと思いました。なぜなら、同じ考えを持った人はおらず、物事を悲観的にとらえやすい人はどんどん殻に閉じこもってしまう可能性もあり、「感じ取ってほしい」「自分で考えろ」「めんどくさいからあとで」という風潮は危険だと思うからです。しっかりと言葉で話すことによって、自分の気持ちにも改めて気づくことが出来るのではないかとも思います。二つめは、人間関係において、区別や上下関係がないところだと思います。先生方に対して、ため口で話をすることが当たり前のことで、学年を超えて皆が同じ立場にありました。一般的に見て、目上の人に対してため口で、友達のように話すことは、失礼な行為だとみられるものです。社会に出たら通用しないかもしれないけど、ここでは許されていて、「こうでなければいけない」という堅苦しさのような空気感がないように思いました。年齢が上だから偉いや、権利がある、などそのような、子供が理不尽に感じる要因がないことが大切だと思います。また、多くの学校に存在するいわゆる「スクールカースト」といったものもなく、生徒の皆さんは、「人」対「人」として、向き合っていると感じました。その姿は、修学旅行の門限を決める話し合いの時にお互いを尊重しあう姿としてみることが出来ました。三つ目に考えた理由は、北星余市の生徒の皆さんは、感受性が豊かな人が多いからではないかということです。実際にお話をさせていただいた中で、生徒会の皆さんは大人や今の学校教育に対する不満や改善策などを熱心に考えているという印象を受けました。それは、自分たちが感じてきた窮屈な思いや、悲しさなどのマイナスな感情を他の人にも感じてほしくないといった想いを感じ取れました。そして、自分たちがそのような生きづらさを感じてきたからこそ、ほかに苦しんでいる人の気持ち、痛さなどもわかるのではないか、と感じました。

改善点

今回の北星余市の視察に同行させていただき感じた改善点は、第一に学習教育の弱さだと思います。授業の様子を見させていただいた中で、正直な感想として、「面白くない」と思いました。むしろ、一部の生徒が先生に向かって茶々を入れることで、楽しんで授業内容の理解度を上げていた、という印象です。プリント学習で、空欄を埋めていく形式の学習でしたが、北星余市の生徒の皆さんは、考える力も自分の言葉で話す力もあるようのなので、話し合って問題を解いていく方が、みんなが理解しやすいのではないかと思います。自分の力で問題を解いていく形式は学んだことが頭にも入りやすいと思います。授業中にイヤホンや、ゲーム機でゲームをしている生徒もいて、北星余市の自由な校風の良さはあると思いますが、先生の話が完全にシャットアウトされるようなことは禁止にする必要もあるのではないかと思います。そして、こういった決まりや、厳しさを先生方の間で統一する必要もあると思いました。なぜなら、生徒の中で「この先生は許可したのに、あの先生は禁止するのはおかしい」などと不信感を抱かせてはいけないと思うからです。もう一つ、改善点として提案できるのは、図書館の図書の数が少ないので増えていってほしいということです。なぜなら、思春期のいろいろな悩みを抱える時期の、読書が与える力は大きいと思うからです。私は、本の代わりに漫画を置くでもいいと思います。活字に触れる、ほかの人の感情に触れる、いろいろな知識を身に着けられるためのよい機会が生まれると思います。北星余市は、学習教育だけでは得られない、それよりもずっと素晴らしい魅力があると思いますが、「学習」という面で成長することが出来れば、より影響力が生まれると感じました。また、生徒の皆さんの進路もより選択の幅が広がっていくのではないかと思います。

今回の北星余市訪問では、生徒の方々、先生方のご協力もあり、充実した時間を過ごす事が出来ました。本当にありがとうございました。

北星余市で感じたこと

静岡県立大学津富ゼミ3年 清水真実

北星余市高校で過ごした2日間、私の目に映る全てがきらきらしていた。それは、少女漫画で描かれるような青春のキラキラ感ではない。一人ひとりの瞳や表情から溢れる輝き、生きる力だった。私の固まっていた心を否応なく揺さぶってくる、あの輝きのまぶしさ、そこに宿る力は一体何だったのか。彼らはどうして北星余市で輝けるのか。そんなことを考えざるを得ない鮮烈な体験だった。

初めて北星余市の職員室を訪れた私は、職員室にやってくる生徒たちに圧倒されていた。黄色、青、赤、思い思いの色に染められた髪の毛、自由な服装。見た目だけでは、私たちとの年齢差が全く分からない。むしろ、彼らの方が大人びていて、逞しく感じた。私たちが新入生と間違えられたくらいだ(余市高校には入学希望者が見学に来ることも多いようだ)。唖然として立ち尽くす私たちに、ものすごいコミュニケーション能力で一気に距離をつめてくる。彼らにも一定のラインがあって、こちらがこれ以上はちょっと、と思う前に上手に距離感を取ってくれる。「コミュ力高すぎ……」と圧倒されて視察が始まった。

授業の時間、教室に行くと、職員室で話していた生徒とはまた違うタイプの子がいた。寝ている子、ゲームをしている子、真面目にノートをとっている子、委員長タイプの子……。先生の邪魔をしてがやがやしている子はやはり一番目立つ。ふざけて遊ぶ生徒と先生の闘いが始まる。先生になったことはないが、相当根気がいるなぁと感じた。一方で、意外にも授業を聞いていて、気になったことにはすぐに質問するものだからびっくりした。質問の内容がまた面白い。私たちをはじめ、授業をしている先生も考えたことがなかったようなことをさらっと、素直に質問する。「プルトニウムって何色?」という素朴な疑問から、「そのお金ってどこから出てるの?税金?」といった鋭い質問まで。先生も、生徒の疑問には全力で応えようとする。時には、みんなで調べて学び合う。私の知っている授業(先生は話して、生徒はだまって板書を書き写すだけの時間)とは明らかに違う時間だ。自由度が高くて面白いと思う反面、私があの中で授業を受けていたら、イライラしているとも思う。だからやっぱり、いわゆる陰キャ(私はこっち側だった)と陽キャの間には壁があったり、お互いを下に見ていたりするのではないかと疑っていた。

そんな疑念がすっかりどこかへ飛んでいってしまったのは、修学旅行実行委員会の会議に参加させてもらった時だ。会議には2年生のクラスの代表数名ずつが参加していて、実行委員会は結構な人数で構成されていた。クラスの風景同様に、色々な特性を持った生徒がいる。大きなロの字型に並べられた席に着いて議論が進んでいく。テーマは「修学旅行の門限について」だ。高校時代、そんなことを自分たちで考える余地すらなかった私からすると、その時点ですごいことが起こっていた。しかし、注目すべきは議論のやり方だったのだ。思ったことがすぐ口に出る子、机に突っ伏している子、ずっとお菓子を食べている子。はたから見ると、とてもうまく進むようには思えない。しかし、全員に共通している姿勢があった。人の意見を聴くこと、そして疑問を残さないことだ。そうやって、全員が納得できる落としどころをつくっていく。互いの特性を引き出しあって話し合いが進んでいるように感じた。議論の様子から、彼らは、互いを受け入れて認め合うという基本的な姿勢を持ち、北星余市高校という場所に一人ひとりが責任を持っていることが読み取れた。そして、自分たちの学校生活なんだから自分たちでつくりたいという強い想いと、その想いが無下に扱われることのない環境であることが伝わってくる時間だった。

修学旅行実行委員会で感じたことがより一層強まり、確信に変わったのが、生徒会役員の生徒たちと話した時間だった。「日本一の生徒会にしたい」という言葉が強く印象に残っている。生徒会が楽しそうで、かっこよくて、憧れだから立候補したという。そして、どうしたらみんなが楽しい学校生活を送れるのか、日々考えてイベントなどを企画している。先生は、適切なアドバイスをし、彼らのやりたいことを応援する。「これが自治というものか」と思った。

北星余市の生徒に話を聞くと、彼らは口々に「北星余市に来てよかった」という。私も、「北星余市に来られてよかった」と思った。なぜだろう……。

ここでは、誰も否定されない。自分が自分でいることが一番素敵だと知ることができる。お互いの持つ力を引き出し合える環境がある。だから、「やりたい」と思えるようになる。やりたいことは一人ひとり違っていい。それが「自分」だから。それが、「あなた」だから。一人ひとり違うからこそ面白い。違いを受け入れ合って、面白がることができるのが北星余市だ。

「違い」が「輝く」学校、それが北星余市だ。

北星余市高校で感じたこと

静岡県立大学津富ゼミ4年 竹市晴香

私は北星余市高校の授業を見て衝撃を受けた。先生が授業をしている中多くの生徒と会話が成り立っていたからである。私が受けてきた授業は先生がひたすら講義をするような形のものであったため、初めて見た光景に驚いた。一見無駄話をしているように見えても、先生の話を聞いていて自分が聞いたことがない言葉が出ると「それってどういうこと」とためらいなく質問をしていた。私は自分一人で大きな声でわからないことをきちんとわからない!ということができなかった。また、北星の生徒たちはものすごく鋭い質問をして先生がその言葉をメモして、「調べて次の授業の時に答えます」ということが多々あった。私が見学をしたのはほんの一部であったので、こういったことが日常的に起きているのだと思うとすごいと感じた。修学旅行の門限を決める話し合いでは、真面目な生徒とやんちゃな生徒が混ざり合って一生懸命話し合っていた。そもそも、修学旅行の門限を自分たちで決めて良いと言われたことがなかった私は、その話し合いの場がものすごく新鮮であった。生徒たちは意見を言った人のことを完全に否定したりせず、一度自分の中でその意見はどうかきちんと考えた上で、賛成か反対かを明確にしていた。一番驚いたことはやんちゃな生徒の意見が簡単には通らないということであった。中学生の頃の私はやんちゃな生徒の側に立つことで自分の意見を通してきた。高校の頃の私は偏差値の高い人の意見が通りやすいと考えて、頑張って自分の意見を通してきた。そんな学生時代を過ごした私にとってこの話し合いは自分の持って過ごしてきた価値観を覆すものであった。本来、誰が強いとか誰が偉いとかそんなものはないのにもかかわらず、勝手にそう言ったイメージを自分の中に植え付けていたのだということに気づくことができた。生徒会役員の話を伺った際、私の過ごした学校での生徒会とは全く違うと感じた。私の生徒会のイメージは、進学する高校や大学を意識して生徒会役員に立候補するというものだ。つまり、学校を良くしたい、楽しくしたいという気持ちが薄いような気がしていた。しかし、北星の生徒会はむしろ学校や生徒、自分の学校生活のことを何よりも大切に考えていた。そんな生徒会の計画したイベントは多くの生徒が参加をし、意見箱の中にも多くの意見が寄せられるという。生徒会の生徒と話をしたことによって、さらに北星余市高校の良さが伝わった。

私の知り合いには高校に行かなかった人や高校を中退して通信制の高校に転入した人が多くいる。彼らや私の中は通信制の高校で特に人と関わることなく卒業するという選択肢しか知らなかった。もし高校時代に北星余市高校を知っていたら確実にオススメしていたと思う。今日引きこもりになってしまう学生が増加している中で、こう言った学校があるのは救いだと感じる。今後出会う人で、学校生活で馴染めない人がいたら教えてあげたいと思う。自分に子供ができた時、子供に何があっても大丈夫だと思えた。北星余市高校は日本になくてはならない、そんな学校であると感じた。

北星余市高校を見学して感じたこと

静岡県立大学津富ゼミ4年 本林智都

私は、自分自身、中高生のとき、学校にあまり行けていなかったこともあり、どこにも居場所がないと感じていました。また生徒さんと年もあまり離れていないこともあり、同じ学生の目線で北星余市を見学しました。

北星余市を見学して、ここは、そのままの自分でいていいんだと感じられる場所なのだなと思いました。こういう学校は(学校に限らず)、他に見聞きしたことがありませんでした。こういう場所をつくることが実際にでき、学校に行けなかったり、自分の意見が何もない子など本当はいないのだということを、北星余市は証明していて、それはもっと知られるべきだと思いました。北星余市のような場所が本当はつくれるのに、他に存在していないことがとても悔しいと思ったし、北星余市は絶対に存在していないといけないと思いました。

修学旅行の話し合い

修学旅行の話し合いをしているのを見学したとき、今までに参加したり見たりした、どんな話し合いよりも活発に意見が交わされていて、驚きました。さまざまなタイプの子がいるのに、みんながしっかり自分の意志を持って発言していて、お互いを尊重して話をしているのがわかりました。他の話し合いではよくある、自分が賢いことを示そうとしたり、他の人の発言を貶めたりすることや、どうせ言っても無駄だという諦めが、全く見られませんでした。普段から、自分が認められている、受け入れられていると確信していて、自分も相手を本当に認めて、受け入れているからこそ、そういう話し合いができるのだと感じました。陰キャも陽キャもなく自分として存在して受け入れられるという経験は、生きていくうえで大きな意味を持つと思いました。

生徒会の話

生徒会の方たちと話したときも、自分の意見をとてもしっかり持っていることに驚きました。「北星余市を日本一楽しい学校にする」という目的を持って、自分たちだけじゃなく、みんながどうやったら楽しいかを真剣に考えているのがとてもすごいことだと思いました。

また、生徒会のメンバーが新入生の面倒を見るという仕組みができており、生徒会に入った理由として、「生徒会はかっこいいから」という意見があったのが印象的でした。

自分達のやりたいことを、大抵のことは先生たちは背中を押して見守ってくれるという話を聞いて、自分達のやりたいことを応援してくれる大人がいて、自分達で形にできる経験を積み重ねていることが、生徒たちが自分の意見をしっかり持って、周りに影響を与えながら変えていくことにつながっているのだと思いました。また、先生たちは生徒たちをエンパワメントするために、たくさん考えて努力されていることが分かりました。

授業

授業は、プリントでの学習でしたが、積極的に質問を発言する子もいて、「学ぶ」ことに対しては、実はとても前向きなのではないかと感じました。一般的な学校の生徒は、テストでいい点を取るために勉強しますが、北星余市の生徒はそうではなく、純粋に知りたい、学びたいという欲求で質問していたように感じました。プリント学習では、暗記を目的とすることが多くなりますが、ディスカッションやフィールドワーク、調べ学習などのほうが、自分から積極的に学ぶ力を引き出せるのではないかと思いました。

学校に行けなかったりした経験があって、いろんな人が周りにいる環境にいる、北星余市の生徒さんは、社会への問題意識を強く持っているのではないかと思います。機会があって、応援してくれる人がいれば、自分から行動を起こせると思うし、すごく力があると思います。

今回、北星余市高校を見学できたことは、自分にとって、とても大切な経験になりました。私も北星余市の生徒さんたちのように、まっすぐな自分でいられるように頑張ろうと思いました。本当にありがとうございました。

PAGE TOP