北星余市を紹介、生き方を考えるウェブマガジン
牧師
西岡知洋
TOMOHIRO NISHIOKA
人が生きていく上で、「出逢い」は欠かすことが出来ない。同時に「別れ」も避けることが出来ない。「出逢い」と「別れ」は表裏一体であり、極端な話をすると人が誰かと出逢うとき、すでに「別れ」は始まっていると言える。
人のいのちの営みの中で「別れ」は出来れば避けて通りたい大きな痛みや喪失の経験である。予期せぬ突然の「別れ」(死別など)も、予定されている「別れ」(卒業や引っ越し)も同じように痛みや寂しさ、時に言葉に出来ない憤りや呻きを生む。全てのいのちには必ず終わりがあるという事実の前に、私たちは虚しさや、孤独を覚えざるを得ない。
北星余市高校はキリスト教主義学校で、「聖書」を学んだり、礼拝を行な っている。私はこの「聖書」の中に、先の孤独や虚しさに向き合う力が秘められているように思う。全てのいのちを創造した神は、その最初の人間を見て「人が独りでいるのはよくない」と述べたとされる。それ故に聖書における人間観は「共に生きることを促されているいのち」であると言えると思う。「あなたは独りじゃない」と。また、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ」と植物のいのちの営みが語られる。つまり、枯れてしまうことは、たしかにそのいのちの終わりに見えるが、しかしその「終わり」が新しいいのちの始まりだ、と。そしてこんなに小さな種子の中に、それほどの希望が秘められているなら、私たち人間はどうだろうか? と問いかける。「終わり」や「別れ」は決して悲しみや孤独にはとどまらないこと。新しい「始まり」や「出逢い」という希望があるという、向き合い方の変化を届けてくれているように思う。
私が北星余市に在学中、友人が学校を去っていった。卒業まであとひと月ほどのころだった。それはあまりに突然で、大きな痛みをもたらした。来月、私たちの学年の同窓会が開かれるという。別れざるを得なかった友人も出席するらしい。突然の別れは、別れのままでは終わらなかった。再会の時に、新しく出逢い直すその時に、どのような言葉を紡ごうか。その時を心から楽しみにしている。
文:西岡知洋
西岡知洋 | TOMOHIRO NISHIOKA
1986年高知生まれ。小樽で育ち北星余市で高校時代を過ごし、京都の同志社大神学部で学んで2011年より日本キリスト教団牧師。愛知県と静岡県の教会を経て、2018年4月より余市教会に牧師として舞い戻ってきました。出会いと別れを繰り返して余市との再会です。