薄れゆく島影に

2021.03.06 コラム

大阪出身の写真家

辻田美穂子

MIHOKO TSUJITA

11年前、初めて祖母の生まれ故郷のサハリン(樺太)に渡った。戦後は国境が閉鎖されていたけれど、平成に入り渡航が解禁されてからも、祖母はその土地に60年以上も戻っていない。自分の生まれた街にもう二度と行けないなんて、平和な日本に生まれた私には考えられなかった。

行き方を調べ始めるとすぐに行き詰まった。当時はガイドブックにもインターネットにもほとんど情報がなく、旅行会社に問い合わせると1週間の見積もり旅費はなんと50万円。それでも諦めずにいると、ある日祖母から、菅野さんという祖母より1つ年上の男性が、サハリン行きのツアーを個人で企画していると聞いた。菅野さんも祖母と同じ樺太生まれで、「もう一度だけ戻りたい」と戦後からずっと募らせていた帰郷の念を叶えて以来その喜びが忘れられず、以後「同じような想いをもっている人がいるだろうから」とツアーを企画し続けていた。

2010年8月、私はサハリンに行くことができた。ツアーだったので、自由に歩いて思う存分写真を撮れなか ったことが悔しかったし、戦後もサハリンに住み続けた日本人の方たちのことや、様々な先住民が暮らした土地の歴史など、知らないことが多すぎて1週間ではとても足りなかった。サハリンを出航する時、遠くなっていく島に「ダスヴィダーニャ(さようなら)」と手を振るツアーの参加者たちと菅野さん。必ずまた来ようと強く想いながら「サハリンの写真集作りたいな」とつぶやくと、菅野さんは笑いながら「やめとけ!」と言った。てっきり応援してくれると思ったのに、「なぜ?」 と聞き返すと「何年かかるかわからないし、大変すぎて嫁にいけなくなる!」と言われた。「別にいいです」と言ったら、菅野さんはただ笑って、否定も肯定もしなかった。

あれから10年。1年に1回の渡航のために貯金をし、長期休みはサハリンに行くか、暗室で写真をプリントしていた。いつでも頭の片隅にサハリンのことはあるので、飽きずに文章を考えたり、ネガや日記を見返して構成を考えたりしている。菅野さんは2013年に亡くなった。あんなに入手困難だったサハリンの情報は、今はSNSでチェックできるし、現地にできた知り合いからはテレビ電話がかかってくる。私は菅野さんが予言した通り10年間結婚できなかったけれど、ご縁もできて子供がうまれた。今はコロナで入国できないし、取り巻く環境は随分変わったけれど、したのかしていないのかよくわからない約束は、まだ継続中だ。

文・写真:辻田美穂子

 

プロフィール

辻田美穂子 | Mihoko Tsujita

大阪出身の写真家。祖母の出身地である「樺太(サハリン)」の写真を撮るため2013年に北海道に移住。 2018年より北星余市の写真を撮りに来ていたことがきっかけで、人生が一変!今年から余市在住。

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