北星余市を紹介、生き方を考えるウェブマガジン
あったかハートのクールガイ/41 期・2008年4月卒
亀橋 陽平
YOUHEI KAMEHASHI
1989 年 9 月生まれ
青森県出身
地元八戸で小学5年から不登校を経験 2005 年北星学園余市高校に入学
2008 年北星大学社会福祉学部へ進学 在学中に介護の道に進む事を決意。
現在、札幌で介護士として働いている。 その心のこもったケアーに定評がある。
亀橋陽平くんが仕事を終えて、待ち合わせた札幌駅改札口に来てくれたのは、第49期卒業式を 翌日に控えた2016年3月4日の夜のこと。あのクールな笑顔と語り口で、インタビューに応じてく れました。
(聞き手/PTA・白土) )
卒業生キラ星インタビュー
ーー 介護士は大事な仕事だけど、大変だよね?
「大変ですね。でも、好きでやっている仕事ですから、続ける事は苦にならないです。」
ーー 介護の世界は、離職率が高いと聞くけど?
「理想と現実のギャップでしょうね。単に処遇の問題だけでなく、例えば、もっといいシャンプ ーを使ってあげたいと思っても、国から入ってくるお金はあくまで入浴1回でいくらという仕組 みですから、結局使う物や人件費を抑えないと、会社として利益が出ないという事になる。より 付加価値の高いサービスをしようと思っても、その理想は実現しないんだと気づいていく。それ で辛くなってしまう人も多いんだと思います。それでも自分が続けていられるのは、お世話をし たおじいちゃんやおばあちゃんの『ありがとう』っていう言葉が嬉しいし、言葉でなくても沈ん でいた表情が笑顔になったり、そんな何かが返ってくることが支えになっているところはありま すね。」
ーー 介護士として、利用者さんと向き合ううえで、こだわっていることはある?
「人と向き合うって、とても簡単なことだと思うんです。単純に、今こうして話しているだけで 向き合っていることになるじゃないですか。これは福祉の相談員の考え方として聞いてほしいん ですが、相手と向き合って話す時、実は本当に向き合わなければいけないのは自分自身なんです。 相手から聴いた話をどう理解するかは、結局自分の価値観によって変わるもの。どんなに相手を 理解したつもりでも、完全である訳がない。だから、相手の価値観や想いを否定しようとする、 そんな自分の負の感情と向き合う必要がある。この考え方を持つまでは、僕は自分自身のことす
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ら、はなから否定していた。いくら表面上いいことをしていても、心の中はそんなに立派なもん じゃないと。例えば、ボランティアで被災地に行った人が、炊き出しであったかい食べ物を被災 者に渡したとしましょう。相手の『ありがとう』という言葉に、素直に喜べなかったりする。『学 校で行けって言われたから来てるだけで、本当は面倒くさいんだ』とかね。でも、相手はそれで 本当に助かっている。本当に感謝してくれているなら、自分の気持ちなんか関係ない。自分の心 に負の部分はあるけど、それでいいじゃないかと。」
ーー まず自分と向き合う、か。そのうえさらに相手とも向き合うって、かなり難しくない?
「難しいです。かえってそっぽを向きたくなるのが人間ですから。そこで、視点を変えて相手と 同じ方向を向いてあげるんです。これがあれば生きていける、こうすれば前に進めるっていう答 えを見つけられるまで寄り添って、同じ方向に一緒に歩いてあげられればいいと、僕は思ってい ます。」
ーー 介護って、利用者さんの身体とか身の回りのお世話をするというイメージはあったけど、心 の問題にそこまでこだわりを持っているとは、正直驚いた。仕事は忙しいと思うけど、実家に 帰省は出来てる?
「年2~3回ですね。現役で 15 歳から余市に来てるし、その後は札幌でもうすぐ 27 歳だから、 人生の半分くらいは北海道で過ごしている事になる。もう地元の事があまりよくわからない。ど こに何があるか、おおよそわかっているつもりでも、以前と変わったりしていたらもうわからな いですよ。」
ーー ―北海道にもう12年だもんね。そのきっかけになった北星余市入学のいきさつを聞かせてほ しいんだけど
「小学校5年の冬くらいから不登校になったんです。最初はすごく単純なんですけど、3日間仮 病で休んだんですよ。特に大きな理由もなく、ちょっとさぼりたいっていう感じで。結局、それ を自分で悪い事だと思っている訳です。で、その後学校に行ったら急に周りの目が気になり出し たんですよ。仮病のことは誰も知らないんだけど、うしろめたい気持ちになった。辛くなって、 だんだん学校から足が遠のいて、不登校っていう状態になりました。親も戸惑ったし悩んだと思 います。おふくろはカウンセリングに通ったりもしていた。地元の中学に進学はしましたけど、 最初ちょこちょこっと行ったくらい。3年生の時は、自分のクラスの教室に入ったのが3~4回 あったかどうか。」
ーー そこから北星余市へはどう繋がったの?
「北星余市のことはまったく知らなかったんです。ドラマも観た事なくて。親戚の人が『こうい う高校あるよ』って資料をくれたんです。パンフレットを見て『何だこの学校、自由過ぎるだろ う。大丈夫か?』って(笑)。自分なんて、やんちゃしてた訳でもなく、完全な引きこもりとい う訳でもない中途半端な不登校生でしたから、ちょっと不安もありましたけど。ただ心のどこか に進学してやり直したいっていう想いもあったんですよね。で、見学に行きました。第一印象は 『すごい田舎』。雪もすごいし。しかも冬休みで生徒がいなかった。直子先生が面接してくれて、 結局入学が決まったんですけど。決めては何だったかな?。スノボが出来るだろうなって思った のも理由のひとつですね(笑」。
ーー いい雪だもんね(笑)
「他にサーフィンが出来そうな千葉の学校も候補に入ってたんですよ(笑)。悪くはないんだけ ど、制服でカチッとした感じで、自分としてはピンとこなかった。とにもかくにも、僕が自分の 意思で北星余市入学を決めたという点で、とりあえずは親も安心したんじゃないかな。」
ーー 入学した後、友達との関係は?
「僕は基本受けなんです。自分からあまり積極的に行く感じじゃなかったです。入る前はドラマ を観た人から『ヤンキーばっかりの学校らしい』と聞かされて、ヤバいかもしれないなって(笑)。 それが、入ってみたらまぁヤバいところはヤバかったですけどね(笑)。でも、入学式から乱闘 になる事もなく(笑)、引きこもってたんだろうなってすぐわかる大人しい子もいたし、10 人 10 色ですよね、月並みな言い方ですけど。」
ーー 3年間の生活は?
「僕は基本受け身ですから(笑)。来るものを受け入れて、ひたすら流れに身をまかせる感じで したね。放課後はクラスで友達としゃべったりするくらい。でも退屈だとは思わなかったですよ。 寮に変えれば自分の時間もありつつ、隣の部屋には仲間もいて、話したい時には話も出来るし。 謹慎にはとうとう入らなかったですね。1回くらい謹慎の館に行ってみたかった。運が悪かった です(笑)。」
ーー そりゃ残念(笑)
「謹慎は自分にとっていい経験にもなるから、入れなかったのは残念ではありますけど、やって はいけない事をやらないっていうのも大事かなって今は思いますね。人に迷惑がかかるかどうか が、自分の中では判断基準です。」
ーー 行事も流れに身を任せて参加してた感じ?
「これがなんと、受け身じゃいられないんですよね。問題が自分にも降りかかってきますから。 1年生の時の文化祭の打合せで、クラス委員の書記をやってたんです。頼まれればいやとは言え ない性格だから引き受けましたけど、そこまで深く関わるつもりではなかったんですよ。ところ が、クラスがなかなかまとまらない。委員長があの手この手で何とかしようとするんだけど、ど うにもうまくいかず、とうとう頭にきて教室を飛び出して、それを副委員長が追いかけて行っち ゃった。結果、前に出ているのが自分だけ。『おいおい』っていう状況ですよ(笑)。」
ーー 受け身なのに、人前に出ちゃってると(笑)
「あのシーンとした、いたたまれない空気(笑)。すごく困って、後ろにいる担任のマナブ(谷 口学先生)に目で訴えるんですけど、何も言わずにただニコニコと笑ってるだけ。それを見た時 に『もう、自分がやるしかない』って思っちゃったんですよね。それでクラスのみんなに『あい つも一生懸命やってくれているんだから、考えようよ』って話しかけた。自分としては完全に想 定外の行動です。その後、委員長が帰って来て、そこからはトントン拍子にいろんな事が決まっ ていった。自分も声をあげてしまった手前、積極的に関わらざるを得ない状況になった。そこが、 クラスにとっても自分にとっても、最初の変わり目でしたね。
北星余市は、例え受け身を決め込んでいたとしても何かしら変化出来るタイミングを与えてく れる学校なんだなって思いますね。誰もが大なり小なり、学校や下宿で問題にぶつかる。そこで 先生が手取り足取り解決方法を教えてくれるんじゃなく、自分で考え選択することを迫られる場 面がある。」
ーー マナブ先生も、それがわかってるからあえて黙ってたのかもね
「わかんないですけどね(笑)。でも、あの経験で気が楽になったっていうのはあります。それ までは、クラスの子たちと遠い関係だった。あそこからは、少しずつ自分を出せるようになって いきましたし、卒業まで楽しかったですよ。
僕の北星余市での経験で言えば、失敗や災難が自分を変えるきっかけになったと思う。向こう からそういうものが降りかかってきたから、ある意味運がよかった。」
ーー 福祉系の大学に進んだ動機は何かある?
「うちの姉貴が障がい者で、要介護度では一番上なんです。小さい頃、てんかんをやった時にそ うなってしまったそうなんですが、僕が物心ついた時にはその状態でした。その姉ちゃんが通う 養護学校に一緒に行って手伝ったりしてました。大学を決める時も、姉貴の事を無意識のうちに 意識していた気がします。」
ーー そこから介護士を目指しての学びが始まる
「と言いたいところですけど、そう簡単にはいかなかったんです。福祉系の学校に入ったものの、 そこで具体的に自分が何をしたいのか、目指したいのか見えていなくて迷子状態だった。そんな 中、人間関係でちょっとへこむ出来事があって、学校に行けなくなってしまったんですよ。それ で単位を落として留年しなくてはいけなくなった。半分鬱のようになって、自分が立ち直ろうと いう気持ちを失っていた。当時付き合っていた女の子とも、結局別れることになって、もう自分 ではどうにもならないところまで落ち込んだ時、親に連絡したんです。札幌から朝電話したら親 父が出て、自分が今しんどいんだということを話したら、『お母さんに行ってもらうから、待っ てろ』と。その日の夕方、八戸から来てくれたおふくろの顔を見た時は、心底ホッとしましたね。 地元八戸の空気をまとって会いに来てくれた。僕はさっき、人生のかなりの時間を北海道で過ご してきて、八戸のことはよくわからくなっていると言いました。でもそれは、故郷が北海道にと って代わったということではない。第二第三の故郷が出来ても、生まれ故郷が八戸であることに は変わりがないんですから。」
ーー 本当に安心できたんだね
「とにかく1回休もう、地元に1回帰ろうということになった。八戸に向かう電車の中で、おふ くろからすすめられて1冊の本を読んだんです。カウンセリングの先生が患者さんとのやりとり を綴ったブログでした。それを読んで、とても心が楽になった。何だか許してもらえたような、 それまで経験したことのない心の持ち様になれた。そして、これはすごいと思いました。言葉で 人の心を救うことができる。自分もこういうことが出来る人間になりたいと。そこに姉貴への想 いが重なって、大学最後の1年間介護士を目指すきっかけになりました。」
ーー お姉さんやお母さんが導いてくれたという事かな?
「もちろん自分の人生、自分で選んで来てるんですよ。百あれば百、自分で選んで歩んで来てい ると思うんです。いろんな環境の中で選択肢がなかなか広がらない事もある。そんな狭い選択肢 の中から、でもやっぱり自分で選んでいるんですよね。学校へ行かなくなったのも、自分が選ん だ道。その時は、理由を周りがこうだからとか親がこうだからとか言ってた気がしますけど、今 考えると自分自身なんですよ。よかった事も悪かった事も、自分で積み重ねて今の自分がある。 姉貴がもし、いわゆる健常者と言われる状態だったとしたら、他の人生があって、それを幸せだ と思っていたかもしれない。でも、今生きているのはここなんです。今、福祉の仕事をして幸せ を感じている。だから、姉貴にも『ありがとう』だし、両親にも『ありがとう』なんです。」
ーー 今日は忙しい中、時間を割いてくれてありがとう。明日からまた頑張ってね。
15歳で津軽海峡を渡り、北星余市で人と関わる喜びに目覚め、卒業後に悩み苦しみ、さらに成 長し、今人の心と向き合う介護士として充実の日々を送る亀橋陽平くん。親元を離れた北海道で の12年間、どんな時も彼の心には故郷八戸と家族への感謝の気持ちが生き続けていました。それを知ることが出来て、なんだか嬉しくなった夜。陽平くんにも「ありがとう」です。