北星余市を紹介、生き方を考えるウェブマガジン
はじめのユッコ/43期・2011年4月卒
石橋 由季子
ISHIBASHI YUKIKO
1992年2月生まれ 和歌山県出身。
地元の公立中学校で不登校を経験。
2007年4月 北星学園余市高校入学。
2010年 沖縄大学国際コミュニケーション学科に進学。
2013年より休学し、2014年度にインド留学。
2015年 復学
2017年 社会福祉法人 一麦会(いちばくかい)に就職。
現在に至る。
自然の恵み豊かな和歌山県紀の川市。JR粉河駅前にある古民家山崎邸におじゃましました。当日はカフェの日で、途切れないお客さんを丁寧にもてなす〝ユッコ〟こと石橋由季子ちゃんのエプロン姿に、思わずほっこり。彼女にインタビューする前に、私も美味しいランチをいただきました。自家焙煎コーヒーの香りと、近代和風建築のどこか懐かしさを感じさせるくつろぎの空間。和むわぁ。
(聞き手:PTA林田真理子)
卒業生キラ星インタビュー
ーー ランチ、本当に美味しかったよ。安心して食べられる優しい味。デザートもコーヒーも。
お客さんも多いね。
ありがとうございます。でも、カフェは木・金・土だけなんです。火・水は相談を受けたり、居場所の活動をしています。
ーー 居場所の活動?
ここは引きこもりだったり、社会の中で生きづらさを抱えている人たちが安心して過ごせる居場所になっていて、一緒にいろんな活動をしたり、相談も受け付けています。社会福祉法人 一麦会(いちばくかい)『麦の郷』の事業所で、職員は私も入れて3人。他のメンバーは居場所を利用している仲間たちです。私たちは地域との交流も大切にしていて、いろんなイベントの会場にもなっています。今日はボードゲーム会があるんですよ。年齢も肩書きもいっさい関係なく、自分がしたいゲームのところに参加するんです。
ーー 楽しそう!
すごく楽しいんです。でも仕事は楽しいだけじゃないですね。まだまだ上手くできないこともあるし、悩むこともある。去年就職して、別の事業所で主に障害を持っている人たちの支援をさせてもらっていました。この4月の異動でここに移ったので、まだ2ヶ月なんです。
ーー フレッシュだね。地元にこういう職場があるっていうのは、もともと知ってたの?
中学で不登校していた頃『麦の郷』がやっていた不登校支援の居場所につながってたんです。
ーー なぜ不登校に?
〝中学校あるある〟なんですけど、やんちゃで派手な子たちと、大人しい子たちの間に階級の違いみたいなものが存在する。その中間の子たちが、両方にいい顔をしながら影で悪口を言う。みんながうわべだけ繕って居場所を確保しようとする雰囲気が気持ち悪くて、そんな所に行くのは無理ってなりました。先生たちは校則のことばかり。当日おなかが痛いのを我慢して、やっとの思いでテストだけ受けに学校に足を運んだのに、担任は一言だけ『カーディガンを脱ぎなさい』。制服の上にカーディガンを着るのは校則違反だからって。結局、学校ってそんな場所でしかなかったんですね。
小学校時代は明るく活発な女の子。そんなユッコちゃんの中学校での生活は、僅か2ヶ月で幕を降ろしました。そこは、本当の自分がそのままでいられる場所ではなかったのです。
ーー 学校に行ってない間、どう過ごしてたの?
家で自由に過ごしてて、人目を避けて、外出は夜でした。お母さんが1年間仕事を休んで一緒にいてくれたんです。二人でいろんな所に行ったりしていました。
ーー 親はどうしても戸惑いが先で、ユッコちゃんのお母さんみたいに、無理に学校へ行かなくてもいいっていう考えに、なかなかなれないものだよ。
でも、今話を聞いたりすると、やっぱり相当しんどかったみたいです。いっぱい悩んだり泣いたりしたって。その時の私には見えてなかったんですけど。
ーー でも最後は、娘本人が一番辛いんだからって思ってくれたんだろうね。
本当に、親に支えられてたっていうのはありますね。
ーー 北星余市にはどうして入ったの?
もともとお兄ちゃんのために親が北星を見つけたんですけど、結果私が入ることになった。地元からも親からも離れて、自立したいという思いがありました。説明会にもついて行ったことがあって、学校紹介のビデオでは、みんながすごく生き生きしていて、青春を謳歌してるっていう感じに憧れたんです。でも、いざ入学してみたら、一年生の時なんて全然そんなじゃないですもんね(笑)。
ーー ギャップがあったんだね。
それまで同年代の人との関わりを避けてきた私にとって、一年生で出会った子たちは衝撃でした。授業中に出歩いたり、お弁当食べたり、先生に注意されて逆ギレしたり。『みんな変わりたいと思って北星に来たはずなのに』って。女の子のグループも得意じゃなかったんで、寮でも、先輩たちとどう接していいかわからず泣いてました。周りにすぐなじめて、楽しそうに過ごしていた子が羨ましかったのをおぼえています。とにかく、一年生の時はとってもしんどかったですね。
ーー そんな中、弁論大会に出てるでしょ?
担任だったすみお(平野純生先生)が、やってみないかって言ってくれたんですよ。あの時の自分にそんなこと出来るなんて、誰も思わないはずなのに、なんでだろう。くすぶってたけど『ゆきこは何か言いたいことがあるのかもしれない』って思ってくれたのかも。
ーー 本当は出来る子って、見ててくれたんじゃないかな。
自信はなかったけど、やれるだけはやってみようと。中学で不登校していた頃のことを話した記憶があります。精一杯でしたけど、終わった後きょうこちゃん(鈴木恭子先生)に『良かったよ』って言ってもらえて号泣しました。きょうこちゃんは、ボランティア委員会の顧問だったんですけど、しんどい時よく話を聞いてもらってました。
それと、2つ上の41期の先輩たちへの憧れが大きかったですね。生徒会をはじめ、寮の先輩とか、学年全体がかっこよかった。2年後に自分があんなふうになれるとは全然思えなかったけど、ひーちゃん(寮母さん)が『みんな最初はしんどくても、いろんな経験をして変わっていくんだよ』って励ましてくれた。それを信じて、心の支えにしてましたね。
生徒会への憧れが、いつしか目標へ。〝忍耐の1年間〟を経て、二年生に進級したユッコちゃんの動きは、見違えるほど積極的になっていきました。前期はクラス委員長。担任のほんまちゃん(本間涼子先生)が背中を押してくれました。その後、学年を代表して修学旅行実行委員、後期にはついに生徒会役員になり、3年生前期までの任期を全うしました。また、3年生で弁論大会に再挑戦。〝伝えたい〟という想いがにじみ出るようなその姿が、ステージ上で輝きました。最優秀賞を獲得して全道大会に進出した彼女は「助けてくれたみんなにありがとう」と、爽やかなコメントを残しています。入学当初は苦痛の種だと思っていた仲間たちの存在が、いつの間にかかけがえのない大切なものになっていたのです。
ーー 卒業式は?
ただただ楽しかった。成長した自分のことも、みんなのことも、すごく誇らしいと思った。一年生の時は、みんなのいやなところしか見えてなかった。見た目とか表面上の態度で決めつけてた。でも、一緒にいろんなことをやっていく中で、一人一人に違った良さがあるんだって気づけた。そういうことを大事にしてくれる大人と会えたことも、自分と同じように葛藤している仲間の成長をすぐ近くで見られたことも、すごく貴重な経験だったなって思います。本当にいろんな人が集まるあの場所で揉まれたから、どんな所に行っても何とかなるっていう気持ちになれた。達成感がありました。
大事にしたいものをみんなと共有しながら一緒に成長できる場所で、ユッコちゃんはやっと本当の自分になれたのかもしれません。〝はじめのユッコ〟18歳、たびだちの春です。
ーー 卒業後の進路は
寒い北海道で3年間過ごしたから、次は南国に行きたいなって(笑)。北星余市でフィリピンへの短期留学も経験していたし、国際的なことにも興味があったので、国際学科のある沖縄大学に決めました。入学して最初の頃は、サークルも楽しくてよかったんですけど、2年生になった頃から『このまま楽しんでるだけでいいのか』って、もやもやし始めた。3年生も終わりかけの頃、『あぁ、あと1年で社会に出なきゃいけないじゃん。』って。具体的に何をしたいのかも見えないまま卒業したら、きっと後悔するって思ったんです。
ーー そこから休学を決めたんだね。
一旦大学から離れてみようって考えて。でも、すぐに何かが見つかる訳もなく、『どうする自分?』っていう状態ですよね。何かきっかけが欲しかった。そんな時、大阪に来たほんまちゃんに相談して1年間のインド留学を決めました。『持続可能な農業農村開発コース』といって、農業実習や農村支援について学ぶ毎日でした。生徒数は4人しかいなくて、私以外はみんなインド人。
ーー 生活は大丈夫だったの?
アラハバードっていう所で、気温差がめちゃくちゃ激しいから体調を維持するのが大変。40度近い熱を2回出しました。食事は慣れるまできつかった。寮では、現地の人の日常食で、ダールという黄色いスープがかかったご飯がよく出てくる。日本のインド料理屋さんで出てくるものとはだいぶ違いますね(笑)。熱中症と食事が合わないのと埃とで、体力面でも精神面でもかなり鍛えられました。カースト制度が目に見える社会、衛生面や時間の捉え方…日本との違いがあり過ぎて、カルチャーショックというものを実感しました。1年間インドにいたら、物事どうにでもなるっていう気持ちになって、大学にもすんなり戻っていけた。農業で生計を立てていこうってなった訳ではないですけど。人生経験としてはとても大きかったと思いますね。
北海道で、沖縄で、そしてインドで様々な経験を重ねたユッコちゃん。悩みながら泣きながら、笑いながら、〝はじめのユッコ〟のこだわりはそのままに、しなやかな強さをも兼ね備えていったように思えます。
ーー インドから帰って、残りの大学生活は?
将来何をやるっていうのが具体的に見えてない状況は相変わらずでしたけど、教育にも興味はあったので教職課程は取っていました。でも、それが3年生からだったんで教育実習が間に合わなかったんです。それで、卒業してからも沖縄に残って、1年間は科目履修生という形で、働きながら、週に1回くらい授業を受けてました。夏は教育実習。基本的には出身中学に行くのがルールなんですけど、母校の中学には絶対行く気なかったんで(笑)、特例措置で沖縄の中学に行かせてもらいました。ただ、その学校もやっぱり校則が厳しくて。髪色・髪型・スカートの丈・靴下の色とか、先生は生徒達にそれを全部言わないといけないんです。私はこういう学校では生きていけないと思った。北星余市なら、見た目とか、表面的なことでなく、その人そのものを見ようとするじゃないですか。自分が働くとしたら、そういう教育現場でないと仕事ができない。万一そういう学校との出会いがあった時のための資格っていう感覚でしたね。
ただ、一年間、学校や教室に入りづらい生徒の支援をさせてもらっていたので、和歌山に帰ってもかつての自分と同じような悩みを抱えている人と関われる仕事がしたいと思って、『麦の郷』のお世話になっていた方に相談しました。ちょうど5月から空きが出るということで採用してもらいました。福祉の仕事は経験も資格もなくて、まだわからないことが多いんですけど。
ーー 資格も大事だけど、それ以上に人とどう関わるかっていうことが重要だよね。
障害を持っている人とか、引きこもりの人とかは、どうしても差別や偏見の対象になりやすい。でも、自分は変な先入観なしで人と接することができるし、人の多様性にも自然になじんでいける。それは、北星余市で様々な人と深く関わってきた経験があるからです。特に今の職場は、社会との関わりを失っている人たちの居場所でもあるので、一人一人が自分自身を見つめて、その人に合った方向に進むための支援をさせてもらうという目的があります。北星余市での3年間で、人の成長や変化を見る喜びを経験できて、今の仕事につながっていると思うんです。『麦の郷』っていう法人自体、私はとても好き。同じ目的とか大事にしているものとかが共感できる場所で生きていきたいってずっと思っていたから、今は幸せだなって思います。
ーー 私も、今日は幸せな気持ち。美味しい空気と美味しい食事、ユッコちゃんとお話できたこと。本当にありがとう。
この雄大な景色が大好きなんですよ。
インタビューを終え外に出て、目の前に広がる龍門山脈を見上げながら、ユッコちゃんはそう教えてくれました。ふるさとの大自然に見守られながら、〝未来のユッコ〟がもう始まっています。
石橋由季子ちゃんが働く『麦の郷 ハートフルハウス 創ーHAJIMEー』は、社会福祉法人 一麦会が運営する福祉事業所のひとつ。生きづらさを抱える若者や家族を支援する〝居場所〟にもなっています。大正時代の文化財構造物でもある古民家山崎邸を改装した、レトロな魅力溢れる空間。カフェは木・金・土曜日に営業。和歌山県内外から大勢のお客さんが訪れますので、事前予約でのご利用がオススメです。
写真は定番の熊野牛カレーのランチ 1000円。同じ値段で季節の限定ランチも選べます。プラス500円で、スタッフこだわりの自家栽培コーヒーとデザートのセットを付ければ、大満足間違いなし。
【創-HAJIME-Cafe】
木・金・土 11:00〜15:00
〒649-6531 紀の川市粉河 853-3(古民家山崎邸)
TEL/FAX 0736-60-8233 E-mail:muginosato-hajime@live.jp
HP:http://hajime-cafe.jindo.com FB:「創-hajime-cafe」